モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

繋がりを強制する

モラハラ加害者は、

「繋がりというものは大事だ」

ということをひたすら唱えて、

繋がりを強制する。

 

家族に対して支配したいなら家族へ

向けてそれを言い続け、

友人なら友人に、

部下なら部下に(この場合は

チームワークが大事、という言葉に

置き換えられると思うが)、

 

恋人なら恋人に

「つながりを大事にしろ」と言う。

 

もちろん、自分の思い通りにならないようなら

「つながりを軽視する悪い人間」ということに

する。

 

どういうときにこういうことを言うか?

というと、

相手がモラハラ加害者と距離を

置こうとしていると感じたり、

 

連絡がなかなかとれないときである。

 

連絡がなかなかとれないと

言っても、

どの程度連絡が空くとそう感じるかは

自己愛性人格障害者の

さじ加減にて決まるので、

 

自己愛性人格障害者が

普段連絡を取らない、

しかし支配下におけると考えているような

立場の人間・・・

息子とか、娘などに急に自分から連絡して

おいて、

 

1時間ほどして連絡が返ってこないと

「何をやっているんだ。

無視するな。

つながりを疎かにするな」

と相手の都合も考えずにメールを送ったり

することもある。

 

 

つまり、つながりという言葉に置き換えて、

「距離をとろうとするな」と

言っているのである。

 

そして距離をとろうとするな、

という理由には、

「とにかく直ちに連絡をしたい用事がある」とか

そういった自分本位のものが最も多い。

 

相手には相手の都合があるのに、

それ自体はまったく考えていないので、

「自分と距離を置こうとしている」とか

「わざと無視している」とか

被害的な考えになる。

 

繋がりに執着しているのではなく、

「ちゃんとつながれよ、

つながりを軽視する人間はだめだ」

という言葉で

連絡を取らないと自分にとって

不都合なことがあるため、

 

「家族はみんなで集って協力しあうべき」

「人と人とのつながりを大事にするべき」

と繋がりという言葉を

多用するだけである。

「自分が犠牲になっている」

自己愛性人格障害者は

自分が犠牲になっている、

自分だけが犠牲になっていると

考える。

 

それは、

自分が被害者としての

立場をとるためというのもあるし、

被害者に対して

「被害者らしさ」を出さないようにする

手段でもある。

 

被害者らしさを出されるというのは、

自分と被害者はまった違う存在だと

思い知ることになる瞬間が生まれる

ということであり、

 

それは自己愛性人格障害者の

危機感を引き出す。

 

そして自己愛性人格障害者が、

相手に対してその人らしさを

感じるときというのは、

 

相手が楽しそうにしていたり、

幸せそうにしていたり、

とにかく自分では感じることの出来ない

感覚を味わっているときだ。

 

そのとき、自己愛性人格障害者は

相手との一体化に失敗しているような

気がするのと同時に、

「お前と私は次元が違う」

といわれているような気分になる。

 

 

なので、相手が楽しそうにしているだけで

腹が立つ。

 

自分とは関係のないところで、

生き生きしているのが許せない。

 

そのとき、

「自分が犠牲になっている」

という立場をとれば、

 

犠牲になっているということは

自分が苦しいということであり、

「その苦しい人間を放っておいて、

自分の楽しみを優先する人間」

に相手を仕立て上げられる。

 

 

さらに言えば、

「自分の犠牲のもとに、

楽しんでいる家族」とすれば、

お前たちが自分らしく過ごしているのは

人を犠牲にしているからだ、

 

この自分が苦しまなければ

お前たちが楽しい時間を過ごせることも

ないのだ、

ということしたいのである。

モラハラ加害者が望む「完璧」とは

モラハラ加害者は、

「完璧」を望む。

 

そして、完璧でないものを

忌み嫌う。

 

これは、モラハラ加害者が

「その人自体をその人となりで

評価できない」

ということに起因する。

 

人として完璧、ということではない。

モラハラ加害者にとって

完璧であるかどうか、

 

つまり

「モラハラ加害者にとって

どれだけ完璧に役に立てるか」。

評価基準はそこである。

 

もちろん、

完璧というのはいわゆる

「なんでもこなせる」という

レベルの話ではない。

 

自己愛性人格障害者にとって、

「自分の不愉快さを

打ち消すことができる」

「自分をすぐに満足いく程度に

楽しませることができる」

「自分が移動したいときには

すぐに移動手段として

動くことができる」

「自分の望むことを言わなくても

理解しなんでも先回りして

こなすことができる」

「自分が面倒だと思う話を

持ち込んでこない」

「自分の問題を変わりに解決できる」

 

…という事柄をすべて

こなせる人間が完璧な

人間であり、

 

「努力してるけど」

とか、

「そうしてあげたいけど」

という言葉は意味がない。

 

自己愛性人格障害者にとって、

100でなければそれは

0なのである。

 

しかし、それらを100こなせるような

人間はいない。

 

人には都合があるからだ。

 

被害者にも人権があって、

休む権利があって、

不満を抱く権利があって、

それら全てを

こなせない事情も出てくる。

 

しかし、

自己愛性人格障害者にとって、

「都合が悪いときは

移動手段として動いてはもらえないけど、

それは仕方がない、

それでも愛する自分のパートナー」

という考え方にはならない。

 

移動を自分でするのは億劫であれば

あるほど、

「他が完璧でも

移動手段として成り立たないなら

それは0ということ。

よって、パートナーとして失格」

ということになる。

 

 

愛するパートナーが、

自分に不満を持ってもそれは

パートナーの一部分であり権利であり、

自分にとっての

愛するパートナーであることに変わりはない、

 

愛するパートナーが

自分の都合にあわせられなくても

それはパートナーのただの側面で、

愛するパートナーであることに変わりはない、

 

という考えはない。

 

 

自分に不満をもつ時点で

「自分を敬わないパートナー」、

それこそがパートナーの全てとなり、

評価に値しなくなる。

 

こういうとき、

自分をおだててくれる人、

としてどうかという部分だけをみて、

評価を下している。

 

自分の都合に合わせて

移動手段として動けないということは

「移動手段として失格」という

評価が下され、

それがパートナーのすべてになる。

 

このときも

「ただの移動手段」として

パートナーをみている。

 

自己愛性人格障害者は、

人の全体像を掴めない。

自分の全体像も掴めていないからだ。

 

だから、焦点化し、

「移動手段」

「世話係」

「家事係」

「食事係」

として相手をみるしかない。

 

食事をしているときは

食事係としてしか相手をみない。

 

だから食事が思う通りでないと、

一気にその食事を作った

パートナーは無価値になる。

 

「パートナーが料理に失敗しただけ」

とはならない。

 

自分を敬う人間としても

恋人としても

移動手段としても

食事係としても

完璧にこなさないと、

 

怒りが込み上げてきて

仕方がないのである。

 

 

人を愛することができない

自己愛性人格障害者は、

人を愛することが出来ない。

 

 

正常な発達過程では

自己愛から他者愛へ移行していくが、

そもそも自己愛というものが成り立っていないのである。

 

「自己愛性」人格障害というものは、

自分を愛して愛してしょうがない、

というわけではない。

 

自己愛自体が成り立っていないから、

まずそこに執着しなくてはならないのである。

 

自己愛性人格障害者は、

「自分を愛する」ことが出来ていない。

というよりも、自分が何なのか

分かっていない。

 

タマネギの中核のように

本来の自分がいて、

それを覆うように洗脳によって生まれた

みじめな自分がいて、

それを隠すように表面に誇大な自分がいる。

 

自分を愛することができなければ

他者を愛することができないのに、

そもそも自分はみじめで愛されるべき

人間ではないという洗脳とそれによる

誤解から、

 

本来の自分はもう

どこにあるのか分からないほど

隠されているのである。

 

「自分」が分からないから

自分を愛することができず、

なんとかして自分を愛そうと

間違った方法でひたすら自己愛に固執する。

 

みじめな自分が本当の自分だと

心は認識してしまっていて、

それを隠すためにとにかく人のせいにし

自分を守り愛そうとし続ける。

 

自分を誇大化して

自分を思いやりがある人間だと信じ

尊敬に値する人間と思われていると

信じ込むことが

自己愛性人格障害者なりの自分の愛し方なのである。

 

自己愛性人格障害者になる前の

モラハラ加害者は

みじめでもなんでもないのに、

 

みじめだと思うような感覚を何度も刷り込まれ、

みじめな自分を隠すために躍起にならざるを得ず、

モラハラという形になってしまう。

 

それこそが、

自己愛性人格障害者を

本当に惨めにしてしまっているのだ。

支配したいという気持ちはどこからくるのか

モラハラ加害者は、

異常なほどの支配欲を抱えて生きている。

 

支配したい、というのは、

思い通りにしたい、と言うことである。

 

モラハラ加害者というのは、

とにかく幼少期より抑圧した

気持ちを心にためすぎている。

 

モラハラ、モラハラでないに関係なく、

人というのはストレスがたまると、

それと同時に「自分の思い通りにしたい」

という気持ちも比例してたまっていく。

 

自分の思い通りにならないから

ストレスがたまるのであって、

ストレスがたまると

とにかく思い通りにしたくなるというのは

ごくごく当然のことである。

 

思い通りになる部分は思い通りになって、

思い通りにならない部分も当然としてある、

というのは現実だが、

思い通りにならなかった時期を

過ごしすぎて、その現実を受け入れられない。

 

その思い通りにしたい、したいという気持ちが

発散されないまま生きてきているので、

発散できそうな場面になると

その支配欲を抑えることが出来ない。

 

というより、

抑えなくてもいい格好の機会なのに

抑える理由がないのである。

 

支配したい、思い通りにしたいと思っていても

自分が支配されてきているから

そもそも思い通りに出来なかった。

だから、支配したいという気持ちだけが

育ってしまっているのである。

 

しかもうまいこと相手の傷にも共感できないし、

支配しても相手にやめろといわれるだけで済む。

相手に嫌だといわれるだけで済む。

 

モラハラをしていて困る場面がない。

支配欲を全開にしていても、

生きていけるのである。

子供に対するモラハラ

パートナーに対するモラハラは

当然のようにずっと続くが、

 

こどもに対するモラハラは

こどもが何人いるかにもよって

かなり差が出てくる。

 

というよりも、

「支配できる範囲」が変わってくるだけだ。

 

なぜなら子供は当然のように

子供のうちは家にいるのが当たり前だけれども、

社会に出ると家から出るのも

当たり前になってくる。

 

 

モラハラ加害者によっては

いずれかの子供が家から出るのを

なんとか罪悪感を持たせて

阻止しようとする者もいれば、

 

家から出るのを干渉しない

(というよりそこまで興味を示さない)

者もいる。

 

1番目には干渉しないのに2番目にはやたらと

干渉する者もいたり、

また逆の場合もある。

 

当然だがモラハラ加害者も

パートナーに対するモラハラがメインであって、

モラハラ加害者自身がどれだけ執着心が

強くてもひとつの身と24時間しか

時間がないわけで、

 

1番目の子供も支配して2番目の子供も

同じように、3番目も・・・というのは、

いずれも家にいる頃は可能かもしれないが

それぞれが社会に出てからは難しいのである。

 

そして幼少期は明らかに抑圧的で

ありとあらゆる子供のミスで

わめき散らしていたりしていても、

社会人になるとぱったり干渉しなくなるという

こともある。

 

しかしどちらにしろ、子供がモラハラ加害者の

可能性を秘めていたり、

被害者としての資質を持っている可能性が

あることは変わらない。

 

「モラハラ」で訴えることはできるのか

日本では、

モラルハラスメントが実際

どういうものなのかという周知が

いまだになされていない。

 

つまり、調停などや裁判などで

モラハラを訴えたところで、

モラハラというものが分かっていない人も

当然いるわけだ。

 

 

だから、「モラハラ」という言葉で

被害を表現しないほうがいい。

 

調停や裁判でなくても、

モラハラという言葉で

第三者に被害を訴えようとしてしまうと、

 

「なんでもかんでも●●ハラスメントと

言ってしまう人なのかな」と

勝手に想像されてしまうことがある。

 

 

別に万人に受け入れてもらえなくていい、

というなら話は別だけれども、

 

被害者がモラハラを第三者に訴える場合は

そのモラハラ被害の中身を

人に理解してもらったり納得して

もらわないといけない時が多いはずだ。

 

そういうときは、

やはりその「中身」がいったいどういうものなのか?

証拠を示すのが一番なのである。

 

モラハラ、といっても

具体的にどういう被害なのか

分からない。

 

罵倒された暴言だといっても、

夫婦喧嘩に暴言はつきものだとか

激しい夫婦喧嘩なら殴り合いでも

ありえるかもしれないとか、

 

人の想像は自分の都合のいいように

果てしなく広がる。

 

具体的にどういう理不尽なことを

言われてきたのか?

どういう攻撃の特徴があるのか?

どれくらいの時間続くのか?

それは一方的なのか?

頻度はどうなのか?

どれだけ酷い暴言なのか?

 

モラハラをすべて言葉で説明するのは

難しく、限界がある。

 

なぜモラハラ被害が酷いといえるのか?

ということは、モラハラ被害を受けましたという

よりも、証拠を示したほうが一番だ。