モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

モラハラ加害者が望む「完璧」とは

モラハラ加害者は、

「完璧」を望む。

 

そして、完璧でないものを

忌み嫌う。

 

これは、モラハラ加害者が

「その人自体をその人となりで

評価できない」

ということに起因する。

 

人として完璧、ということではない。

モラハラ加害者にとって

完璧であるかどうか、

 

つまり

「モラハラ加害者にとって

どれだけ完璧に役に立てるか」。

評価基準はそこである。

 

もちろん、

完璧というのはいわゆる

「なんでもこなせる」という

レベルの話ではない。

 

自己愛性人格障害者にとって、

「自分の不愉快さを

打ち消すことができる」

「自分をすぐに満足いく程度に

楽しませることができる」

「自分が移動したいときには

すぐに移動手段として

動くことができる」

「自分の望むことを言わなくても

理解しなんでも先回りして

こなすことができる」

「自分が面倒だと思う話を

持ち込んでこない」

「自分の問題を変わりに解決できる」

 

…という事柄をすべて

こなせる人間が完璧な

人間であり、

 

「努力してるけど」

とか、

「そうしてあげたいけど」

という言葉は意味がない。

 

自己愛性人格障害者にとって、

100でなければそれは

0なのである。

 

しかし、それらを100こなせるような

人間はいない。

 

人には都合があるからだ。

 

被害者にも人権があって、

休む権利があって、

不満を抱く権利があって、

それら全てを

こなせない事情も出てくる。

 

しかし、

自己愛性人格障害者にとって、

「都合が悪いときは

移動手段として動いてはもらえないけど、

それは仕方がない、

それでも愛する自分のパートナー」

という考え方にはならない。

 

移動を自分でするのは億劫であれば

あるほど、

「他が完璧でも

移動手段として成り立たないなら

それは0ということ。

よって、パートナーとして失格」

ということになる。

 

 

愛するパートナーが、

自分に不満を持ってもそれは

パートナーの一部分であり権利であり、

自分にとっての

愛するパートナーであることに変わりはない、

 

愛するパートナーが

自分の都合にあわせられなくても

それはパートナーのただの側面で、

愛するパートナーであることに変わりはない、

 

という考えはない。

 

 

自分に不満をもつ時点で

「自分を敬わないパートナー」、

それこそがパートナーの全てとなり、

評価に値しなくなる。

 

こういうとき、

自分をおだててくれる人、

としてどうかという部分だけをみて、

評価を下している。

 

自分の都合に合わせて

移動手段として動けないということは

「移動手段として失格」という

評価が下され、

それがパートナーのすべてになる。

 

このときも

「ただの移動手段」として

パートナーをみている。

 

自己愛性人格障害者は、

人の全体像を掴めない。

自分の全体像も掴めていないからだ。

 

だから、焦点化し、

「移動手段」

「世話係」

「家事係」

「食事係」

として相手をみるしかない。

 

食事をしているときは

食事係としてしか相手をみない。

 

だから食事が思う通りでないと、

一気にその食事を作った

パートナーは無価値になる。

 

「パートナーが料理に失敗しただけ」

とはならない。

 

自分を敬う人間としても

恋人としても

移動手段としても

食事係としても

完璧にこなさないと、

 

怒りが込み上げてきて

仕方がないのである。