モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

嫌がらせを自覚できない理由

自己愛性人格障害者は、

自分がやっていることを嫌がらせだと自覚しない。

 

たとえば付き合っている異性が

職場の同僚との話を楽しそうに喋っていると、

話の内容はどうあれ

「別の場所で楽しんでいる」

ということばかりが目に映る。

 

 

自己愛性人格障害者が

相手に対して一番危機的に感じるのは、

「生き生きしている姿が見える」

ことである。

 

 

もっと正確に言うと、そこに

「自分らしさがある」

ということだ。

 

 

自己愛性人格障害者にとってターゲットとは、

「自分と同じ、自分よりも惨めな存在」

でなくては安心できない。

 

であるから、

心理防衛がそのために

「相手と自分や周りは同じ」存在とみなし、

 

自分と他人の境界線を曖昧にする。

 

それなのに

自分らしさを出されると、そのたびに

現実を直視するしかなくなってしまう。

 

 

「自分と全く違う意見」を出されても

同様である。

 

「あなたと私は違うよ」といわれているのと

同じに聞こえてしまう。

 

だからその言葉がどんな些細なエピソードによって

発せられたものでも、 

「お前の考えは間違っている(なぜなら

自分と全然違う考えだからだ)」

と同じ考えを持つように強要する。

 

 

自己愛性人格障害者は、

「お前と自分は一緒だよ」と思い込まないと

生きていく精神的な強さがないので、

自然とそう思い込んで生きている。

 

しかし現実は勿論違うので、

なんとかして

「お前と自分は一緒(惨め)だよ」

ということを思い込み続け、

 

自分の危機(現実は、自分は自分、

他人は他人で全く別の存在)を

回避し続けなくてはならない。 

 

だから交際している異性が

そういう風に同僚たちとの楽しいエピソードを

話したあとに

徐々に不機嫌になり、

 

その見たこともない同僚の悪口や、

「お前らはどうせたいしたことのない仕事しか

出来ない」

「そうやってわいわい馬鹿みたいに騒ぐのは

理解できない」

と非難する。

 

 「同僚とそんなふうに楽しむのはおかしい

(自分が感じ取ることの出来ない時間を

感じるのはおかしい)」

「自分みたいな考えが正しいのだから

お前もそうするべき」

と、自分と同化させるような働きによるものである。

 

 

しかしターゲットにとっては

「なぜそんなことを言うのか?」

「またそんな人の嫌がることばかり言って嫌がらせする」

と考えるのは当然のことで、

相手にとっては嫌がらせにすぎない。

 

しかし自己愛性人格障害者の致命的なところは

この「相手にとっては」

と、相手の立場になって考えることがまず出来ない。

 

 

なぜなら「相手は自分と同じ(みじめな)存在」

と思い込んでいるからだ。

 

 

そうだよね、

あなたは私とは違う存在なのだから

そういう楽しい部分があってもいいよね、

などという考えはない。

 

言葉ではそれを受け入れているような発言を

したとしても、

心ではずっと非難しているので結局

不機嫌になり爆発する。

 

それは自己愛性人格障害者にとって

現実を直視しなくてはならない危機だから

だ。

 

 

自己愛性人格障害者にとって

その危機に直面させたのは、

紛れもなく「自分らしい時間を

過ごした」相手であり、

 

それがいかにおかしなことかと

いうのを

「モラルとは」「常識とは」「正義とは」

という言葉で隠して話すので、

 

「自分は仕事でこんなにストレスを抱えているのに

お前は職場が楽しいとか言うなんて非常識」

「仕事場でそんなバカ騒ぎするなんて、職場の程度が

知れている」

「モラルのない人間たち」

「プライドを持って仕事するべき」

「仕事場は仕事するところ」

「仕事を真面目にやっている人間に対して

失礼だと思わないのか」

 

・・・という、それらしい言葉での攻撃を

何年も繰り返していく。

 

 

被害者はモラルを用いられると

自分が悪い人間のことのように

感じてくるため、

 

被害者も嫌がらせだと認識できず、

加害者も勿論「相手が自分を危機に

貶めたから」という憎しみに対する

報復の気持ちでいるので、

 

先に嫌がらせをしたのは

楽しそうに話をした被害者ということになる。

 

 

加害者が急に不機嫌になったり

嫌がらせしてくるのに

「こっちは被害者だぞ!」

「常に被害を受けている!」

と言うのは、

 

自分の悪意を人の悪意と思ってしまうのと、

自分と被害者は違う存在、だから

相手は惨めではないし自分の思い通りにはならないと

突きつけられるたびに、

 

そういう「危機的状況」にいつも

追いやられてしまうからだ。

 

相手の立場から見ると

いくらモラルで隠れ蓑をしていても

ただの嫌がらせ

という視点から見ることができない。

別れ話で必ず起こる混乱

モラハラ加害者と別れ話をするとき、

モラハラ加害者はその別れを切り出されたことに

対して激しい怒りと納得できないという感情を持つ。

 

だが、

モラハラ加害者はその怒りがなぜ起こって

いるのかを正しく理解することができない。

 

理解できるのは、

「目の前にいるこの相手が

別れるだのなんだのと言いだしたから

強烈に不愉快な気分になった」

ということだけだ。

 

被害者に、とにかく

この自分自身に起きた痛みはお前のせいなのだからと

お前がどうにかしろと憤慨する。

 

「お前が別れ話をしはじめたから

自分は不愉快になった。

その責任をとれ」

ということなのだが、

 

勿論、自己愛性人格障害者は

そのままは言わない。

 

別れ話を被害者側からするのが

いかにおかしなことか、

別れ話をされている自分は正当であるのに

なぜここまで傷つけられなくては

ならないのか、という話になる。

 

加害者は、「別れ話をするお前のせいで

傷ついた。責任を取れ」

被害者は「別れたいという気持ちまで

非難されても困る。

こういう人だから余計別れたい」

 

という主張になり、

完全に交わることがなくなる。

 

 

「こっちの痛みを理解しろ」と

加害者は言うのだが、

 

被害者がその痛みを納得してしまうと、

そもそも別れることが出来なくなる。

 

別れ話を取り下げること以外は

全て「痛みを納得していない」ことになり、

「あなたが傷ついたのは分かったけど、

こちらもずっと一緒にはいられない」

という回答など無意味だからだ。

 

つまり加害者の言動を要約すると、

「別れ話をお前から切り出すのはこちらの意に

反するのだから永遠に別れ話なんて出すな、

思ってもならない」

ということになるのだが、

 

加害者は勿論「そういうことじゃない」と

否定する。

 

 

そして被害者側から別れを切り出したり

離れようとしたりすると、

それがいかに異常で非道なことであるかを

教え込もうと必死に吹き込んだり、

 

自分が相当ダメージを受けたように

見せたり、「自分がどれだけ傷ついたか」

「あなたがいないとどうなるか」を

また冗舌に語ったりする。

 

モラハラ被害者を傷つける元被害者

モラハラ被害者が、

他にもモラハラあるいはDVを受けていた人間に

心当たりがあり、

その人に自分の境遇を相談したとする。

 

 

ところが、

その「元被害者」が、モラハラや

自己愛性人格障害者のことを理解していないと、

 

「あなたはなんで逃げないの?

(私は逃げたけど)」

 

と直接言い放ったり、

言いはしなくても心でそう思ったりする。

 

 

モラルハラスメントは、

被害を受けた人間全員が

モラルハラスメントと気付くわけではない。

 

逃げ切るまで気付かないこともあるのだ。

 

もしくはモラハラでなく、

暴言やDVを受けていたのみのこともある。


 

その場合、

被害者は

まるで「あなたは行動しないだけだよ」

と言われているようで、

余計に突き放された気分になる。



モラハラ被害というものは、

ただ暴言暴力を受けているから

逃げれば終わり、というわけではない。



モラハラ被害者は行動力がないから

被害から抜け出せないわけでもない。


なぜこういうことが起こるかというと、

元被害者に「自分も同じ被害の当事者に

なった劣等感」

が生まれやすいので、


その劣等感が強く昇華できていないと、


被害者の気持ちを汲むよりも先に

「私も同じ当事者だけど、

私はちゃんと逃げた。

だからこの人とは違う」

という心理が働く。


これは現在被害者にあっている人も

同じで、

自分の受けているものがモラハラだとも

思っていない(認められない)とき、


同じような被害者の話を聞いても

「なぜそこまでされて逃げないの?

(うちは違う、そんな夫婦じゃない)」と

考えてしまう。



モラハラ被害から抜け出せないのは

行動力の問題ではない。


無論、被害者が被害に気づきにくいという

特性もあるが、


実際気づいたとして被害から抜け出すためには、

あらゆるものを犠牲にしなくてはならない。


モラハラ加害者が

被害者を逃さないために

周囲をいくらでも巻き込むことができ、


犯罪でも容易に犯してしまえるからだ。



被害者が実際に「逃げる」ためには、

何十段階もの準備を

加害者に知られないように進める必要が

ある。


逃げたあとも、警察との連携が必要な

場合も非常に多くある。


自己愛性人格障害者でなくても

DVを行う人間は

ストーカー化する可能性が非常に高く、

命に関わることだからだ。


そういう人間は、

どういう手段を使っても

居場所を突き止める。



モラハラ被害者にとって、

加害者との生活を続けることは

モラハラ被害に遭いつつも命の安全は確保されているということ、


逃げるということは

モラハラ被害から逃れつつも

職場と大事な人たちを危険に巻き込む

可能性があり、

なおかつ被害者自身にとっても命がけの行為だ。


モラハラ加害者の人格否定

モラハラ加害者は人格否定ともとれる言葉を

よく使う。

 

「自己愛性人格障害者は、

そもそも自己評価が著しく低い人たち」であるため、

 

 

www.moralharassment.com

 

 と同じで、

他人は自分と同じようにみじめな存在で

汚いことばかり考えている人間、という考えが

距離が近くなれば近くなるほど

修正できなくなってくるからだ。

 

 

配偶者でも、恋人でも、

ある程度距離の近くなった友人でも、

 

「こいつも自分と同じでみじめ」だと

思い込む。

 

 

他人は自分の鏡であるので、

他人への悪口がまるで自己紹介のようになり

「それ、そっくりそのままあなたのことだね」

と返されそうな事まで言ってしまう。

 

だが本人は自分のことを言っている、

なんてまるで気付いていないのである。

 

 

モラハラ加害者の人格否定というのは、

「自分に対する否定」でもある。

 

 

「人としておかしい」といっているときは、

何かを盾にして「自分はおかしくないけど」

といえるときで、

しかしその盾がないと「自分は相当おかしい」と

思っている。

 

「コミュ障なんじゃないか?」と笑っているときは

何かエピソードを持ってきて

「自分はコミュニケーション能力が高いけど」

と言えるときで、

 

しかしそのエピソードを作り出さないと

本当の自分は「相当コミュニケーション能力が低い」と

思っている。

 

 

「お前と付き合う周りの人が気の毒だよ」と

言っているときは

「自分は周りの役に立っている」と胸を張れることが

あったときで、

 

しかし本来の自分は

人に対して何の役にも立たない人間だと

思っている。

モラハラ加害者とは確実に話し合いにならない

モラハラ加害者と「話し合い」の場を

設けなくてはならない場面になったとき、

 

確実に「話し合い」というものは出来ない。

 

これは被害者が加害者に対して

異常性を感じる場面の一つである。

 

たとえば一般的に考えて、

相手と話し合いが難航するというときは

「片方・両方が意地を張っている」とか、

「折り合いがつかない」とか

そういうレベルだ。

 

この場合どちらも話し合いは必要だと思っていて、

相手の言い分も分からなくはないが、

それよりも自分の要求や訴えたいことが

大きすぎて、どうしても相手の言い分を

飲み込むわけにはいかない状態である。

 

 

一方モラハラ加害者と話し合いをする場というのは、

大抵モラハラ加害者がそれを要求したときか

必要だと感じたときのみだ。

 

被害者が話し合いが必要だと思ったとき、

それを訴えても加害者は大抵話し合いなど

必要ないと考えている。

 

平時はモラハラにてコントロールすればいつも済むからだ。

 

いちいち「話し合い」などといって

対等に自分も相手の意見を聞くことの

必要性はどこにもない。

 

 

しかし、有事は違う。

たとえば被害者が逃げてしまったとか、

自分がモラハラが出来ず不利な状況に

なった場合などは、

モラハラ加害者はすぐ「話し合い」と言う言葉を持ち出す。

 

 

このとき、本当にしたいのは話し合いではなく

要求である。

しかしいつもしている脅迫という形での

要求が効かなくなったから

自分が別居などの不利な状況になっているわけである。

 

ならばそこでは「話し合い」という言葉を使ったほうが

いい、と判断しているからそうしているだけだ。

 

 

だから、話し合いをしようと言いながら、

結局自分の要求(この場合は“戻ってこい”)だけが目立つ。

 

 

 

被害者は

「どういう行為が傷ついたか理解してほしいし

なぜ戻りたくないのか理解してほしい」

のだが、

 

加害者は「戻ってくる」という確約があれば

いくらでも被害者の傷を理解するふりをする。

 

しかし「戻ってきそうにもない」なら

とにかく戻ってくるためにどうアプローチを

するか、ということしか考えない。

 

 

とにかく戻ってくるために「感謝」を述べたほうが

いいのか?

「思い出話をしたほうがいいのか?未来の話?」

「被害者面をしてやはり相手の罪悪感を引っ張り

出してきたほうがいいか?」

「どれだけ酷いことをしているか

分からせてやったほうがいいか?」

 

ということを次々と考え次々と試すため、

 

被害者の「まずは傷を理解してほしい、

なぜ離れたいのか理解してほしい」

という気持ちはそっちのけになる。

 

それを理解したら、

傷を理解したふりだけでなく

「相手を傷つけたのは間違いなく自分のせいで、

自分が悪かった」ということを

本当に認めることになるからだ。

 

 

だから話し合いをしたいと言いながら

「一緒にあんなことしたのも良い思い出だな」と

言ったり、

「お前が戻ってきてくれないと

もう死ぬしかないな」

「大体、急に離れようなんて

人としての常識がなさすぎて・・・・」

 

などと言い始める。

 

結局、「戻ります」という言葉を

引き出すための独り言に過ぎないのである。

モラハラ加害者の「反省」の特徴

モラハラ加害者の反省の特徴として、

まず確実に「中身は伴っていない」ということが

第一として挙げられる。

 

つまり反省しているといいながら

罪悪感もないし内省もしていないという

ことである。

 

 

そして第二に、「反省している」と

わざわざ宣言する。

 

ターゲットに対して、である。

反省したということを示すためには

色々演出する。勿論謝罪の意味もこめて

泣くのも当たり前だが、

 

感極まったような感じで泣く。

 

この「反省している感じを出す」ことにかなり

長けており、まるで本当に反省しているかのように

見える。

 

本人もそう思いこんでいるが、

ここはどちらかというと「悲痛な想いを抱えた人間」

になりきっているような印象であり、

 

ふと些細な質問を短く投げかけると、

すぐ悲しむまねをやめたり

反省から転じて急に感情が変わったように

みえたりする。

 

 

そして第三に、「反省している」と

宣言しなくてはいけない状況にあるという

ことである。

 

つまり相手と知り合ってまだ日が浅かったり、

 

反省していることにして相手に「謝ったのだから」

「反省したのだから」という「反省」をまるで

高価なプレゼントのように差し出して

何かを得たいとき。

 

 

そして被害者がこの反省にまんまとはまってしまうのも、

モラハラ加害者の反省の特徴である。

 

ちなみにこの「反省」により

被害者が何かを差し出さないと

「脅迫」に移るか「感謝の意」を表明しだすか、

暴言・暴力に訴えることが多い。

「モラル」ハラスメントとは結局なんなのか

モラルハラスメントの「モラル」とは

道徳を意味する。

 

しかし、「道徳を用いたハラスメント」、

たとえば

こうするのが道理だろうとか

これを果たすのは義務だろうとか、

 

それさえ相手に要求すれば

モラハラが成立するわけではない。

 

「それで嫌な思いをする人がいる」

という意味であればその部分だけを

モラハラと言えばモラハラになるのかも

しれないが、

 

正しい意味でのモラハラではない。

 

 

ではなぜ自己愛性人格障害者が行なう

責任転嫁や支配のことを

「モラルハラスメント」というのか?

 

それは、

自己愛性人格障害者が、

絶対に「人の道徳心」を利用せざるを得ない

人種で、

結果的にそれが他人への攻撃になってしまう

人たちだからだ。

 

 

たとえば誰かに贈り物をする。

送り手と貰い手がいる。

貰い手は、贈り物が欲しいといっている

わけではない。

 

しかし自己愛性人格障害者が

送り手である場合。

 

自己愛性人格障害者は

最初かなり人に優しくし、尽くす。

特にまだ付き合っていない時は

そうなる。

 

その自己愛性人格障害者がプレゼントを

贈った時。

優しさも、尽くすことも、

プレゼントも、

 

自己愛性人格障害者にとっては

「ここまでしているのだから、

あなたが見返りに返すのは当然」

と思っている。

 

つまり、

「優しさと誠意とプレゼントで、

他人の自由を買おうとする」。

 

普通の見返りを求めるのとは訳が違う。

「贈り物を受けたらそれ相応のものを返すべき」と

いうよりは

「返さないなんてありえないし

許されない」と言ったレベルなのである。

 

 

しかし、自由を買おうとするなんて

自分は酷い人間だということを

本人は認識できない。

 

 

これは自己愛性人格障害者だけでなく

人間はみなそうである。

 

「自分が心配で離れたくない」と思っているだけなのに

「子どものため、世間様に迷惑をかけないため」と言いながら

手を出し口を出し世話を焼こうとするのも

その一つである。

 

つまり「こどものため」というのは

世間様に説明するためのもっともらしい

道徳心なのだ。

 

人は自分の悪の部分をごまかすために

この「道徳」「正義」をものすごくよく使う。

そして自分の道徳がいかに正しいかを

知らしめるために相手を「悪」に仕立てる。

 

 

「なぜ虐待した?」→「虐待したつもりはなかった、

あまりにもぐずるので、親としてのしつけのためだった」

 

「怒鳴り声が大きいとお客様からクレームが来たぞ」

→「指導に熱が入りすぎたんでしょう。部下の●●が提出

書類の一部を間違えていて。新人でさえ分かることですよ、

放って置くと全体の士気に関わりますからね。

リーダーとして・・・」

 

 

だからこういう「道徳心」とかを使う光景は、

自己愛性人格障害者でなくても

よくみかける。

 

 

これが自己愛性人格障害者になると

何が違うかというと、

自分の支配欲が強すぎるゆえ、それを隠すための

自分の道徳心の主張が強すぎる(事実まで曲げる)ということ、

 

「相手に求める道徳心、求めるレベルも桁違い」

であるということ。

 

そして相手が自分と全く違う存在であると

いう区別がつかないことである。

 

 

 

あなたは、

相手と付き合いたいからといって

会ったこともない有名人に「是非使ってね」と

プレゼントをたくさん贈りつけ、

 

心の奥底では「これだけプレゼントしてるんだから

自分の希望(付き合うこと、結婚すること)に応えるのが人として

当たり前の対応だ、

それ以外は許さない」と考え、

 

実際に見返りがないと強烈に腹を立て実際に

復讐したり脅迫するか?

 

 

自己愛性人格障害者は

思い通りにしたい(できると思った)相手

に対して、強烈な支配欲を生む。

 

その支配欲ゆえに

「思い通りにしたいし、するべきだ」という

強い気持ちをこれも強い道徳心や正義で打ち消す。

(無意識で)

 

恋愛だったら「非常に深く愛している」とか、

「君のことがいつも心配で」とか、

 

部下に対してだったら「お前の将来のためを思って」とか、

「私がすばらしい人材に育てあげたい」 とか。

 

 

そして相手に対しては、

恋愛だったら「ここまでプレゼントしているのだから

自分にお礼をいうのは義務だ。とにかく反応を示すのが

人として当たり前。そして付き合いたいし結婚したい。

ここまで思っているのだからその権利はあるはずだ。

これでなんとも思わないなんてそんなことはありえないはずだ」

 

仕事だったら「ここまで指導してやって手をかけているのだから

今後は一言一句間違えずに正確に書類を作り企画を作り上げ

上司である自分に恩返しするのが人として、社会人としての

道理だ。私の仕事がしやすくなるように●分までには出社して

私の都合のいいタイミングで報告し飲み会の誘いも断ってはならないし

他の上司からの打診なんて受けてはならない、それも

人として当たり前だ」

 

 ・・・という無茶な道徳心を要求する。

 

 

つまり、要求したことが一つ出来なくても、

自分を不愉快にさせるしそうさせるなんて

「ここまで道徳を守ってきた相手に」

「道徳を守らないなんて人としてどうなのか?」ということを

常に責め続ける、

 

自己愛性人格障害とは

そういう成り立ちなのだ。

 

 

たまたま自分の悪意や落ち度を隠すために

一般人が「でもあいつのこういうところだって

人としてどうなの~」と責めるとき、

「もうあいつとは付き合いたくない」と

すでに心で距離をとっているものだが、

 

 

自己愛性人格障害者は、

「思い通りにしたい、できる相手」がいると

徹底的にその人に執着してしまい、

離れられない。

 

相手のミスに怒り狂っているように見えても、

相手のミスを責め立てていられるときは

「みじめな自分」から目をそらせる絶好のチャンスなので、

それを生み出してくれる相手から

何をどうやっても離れられないのだ。

 

 

だから「人として~」と何時間も説教する

自己愛性人格障害者に耐えかね配偶者が出ていくと、

その行為も「人としておかしい」「死ぬぞ(これで

助けなければお前は本当に人としてパートナーとして

最低だぞ)」と責め、

 

それでも思い通りにならないときは

ストーカー化しそれでも

「あいつが道理を守らなかった、

自分は守ってきたからあいつを裁く権利がある」

と主張する。

 

常に「モラル」というものを

持っているということを剣に、

それに対し「モラルで返さないのはお前」というのを

盾に、 

自分の悪意を隠していかないといけない

仕組みになっているが、

 

「教員」「医者」「警察官」「社長」「いわゆるエリート」に

自己愛性人格障害者がこだわりやすいのは

「上に立っていてもモラルを主張しても

おかしくない」立場だからというのもある。

 

「親」という立場だったり

「夫として」「妻として」

という言葉も同様だ。

 

「モラル」を唱えるにふさわしい肩書きが

あれば、

その肩書きだけで自分が正しいと思えるからである。