モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

「モラル」ハラスメントとは結局なんなのか

モラルハラスメントの「モラル」とは

道徳を意味する。

 

しかし、「道徳を用いたハラスメント」、

たとえば

こうするのが道理だろうとか

これを果たすのは義務だろうとか、

 

それさえ相手に要求すれば

モラハラが成立するわけではない。

 

「それで嫌な思いをする人がいる」

という意味であればその部分だけを

モラハラと言えばモラハラになるのかも

しれないが、

 

正しい意味でのモラハラではない。

 

 

ではなぜ自己愛性人格障害者が行なう

責任転嫁や支配のことを

「モラルハラスメント」というのか?

 

それは、

自己愛性人格障害者が、

絶対に「人の道徳心」を利用せざるを得ない

人種で、

結果的にそれが他人への攻撃になってしまう

人たちだからだ。

 

 

たとえば誰かに贈り物をする。

送り手と貰い手がいる。

貰い手は、贈り物が欲しいといっている

わけではない。

 

しかし自己愛性人格障害者が

送り手である場合。

 

自己愛性人格障害者は

最初かなり人に優しくし、尽くす。

特にまだ付き合っていない時は

そうなる。

 

その自己愛性人格障害者がプレゼントを

贈った時。

優しさも、尽くすことも、

プレゼントも、

 

自己愛性人格障害者にとっては

「ここまでしているのだから、

あなたが見返りに返すのは当然」

と思っている。

 

つまり、

「優しさと誠意とプレゼントで、

他人の自由を買おうとする」。

 

普通の見返りを求めるのとは訳が違う。

「贈り物を受けたらそれ相応のものを返すべき」と

いうよりは

「返さないなんてありえないし

許されない」と言ったレベルなのである。

 

 

しかし、自由を買おうとするなんて

自分は酷い人間だということを

本人は認識できない。

 

 

これは自己愛性人格障害者だけでなく

人間はみなそうである。

 

「自分が心配で離れたくない」と思っているだけなのに

「子どものため、世間様に迷惑をかけないため」と言いながら

手を出し口を出し世話を焼こうとするのも

その一つである。

 

つまり「こどものため」というのは

世間様に説明するためのもっともらしい

道徳心なのだ。

 

人は自分の悪の部分をごまかすために

この「道徳」「正義」をものすごくよく使う。

そして自分の道徳がいかに正しいかを

知らしめるために相手を「悪」に仕立てる。

 

 

「なぜ虐待した?」→「虐待したつもりはなかった、

あまりにもぐずるので、親としてのしつけのためだった」

 

「怒鳴り声が大きいとお客様からクレームが来たぞ」

→「指導に熱が入りすぎたんでしょう。部下の●●が提出

書類の一部を間違えていて。新人でさえ分かることですよ、

放って置くと全体の士気に関わりますからね。

リーダーとして・・・」

 

 

だからこういう「道徳心」とかを使う光景は、

自己愛性人格障害者でなくても

よくみかける。

 

 

これが自己愛性人格障害者になると

何が違うかというと、

自分の支配欲が強すぎるゆえ、それを隠すための

自分の道徳心の主張が強すぎる(事実まで曲げる)ということ、

 

「相手に求める道徳心、求めるレベルも桁違い」

であるということ。

 

そして相手が自分と全く違う存在であると

いう区別がつかないことである。

 

 

 

あなたは、

相手と付き合いたいからといって

会ったこともない有名人に「是非使ってね」と

プレゼントをたくさん贈りつけ、

 

心の奥底では「これだけプレゼントしてるんだから

自分の希望(付き合うこと、結婚すること)に応えるのが人として

当たり前の対応だ、

それ以外は許さない」と考え、

 

実際に見返りがないと強烈に腹を立て実際に

復讐したり脅迫するか?

 

 

自己愛性人格障害者は

思い通りにしたい(できると思った)相手

に対して、強烈な支配欲を生む。

 

その支配欲ゆえに

「思い通りにしたいし、するべきだ」という

強い気持ちをこれも強い道徳心や正義で打ち消す。

(無意識で)

 

恋愛だったら「非常に深く愛している」とか、

「君のことがいつも心配で」とか、

 

部下に対してだったら「お前の将来のためを思って」とか、

「私がすばらしい人材に育てあげたい」 とか。

 

 

そして相手に対しては、

恋愛だったら「ここまでプレゼントしているのだから

自分にお礼をいうのは義務だ。とにかく反応を示すのが

人として当たり前。そして付き合いたいし結婚したい。

ここまで思っているのだからその権利はあるはずだ。

これでなんとも思わないなんてそんなことはありえないはずだ」

 

仕事だったら「ここまで指導してやって手をかけているのだから

今後は一言一句間違えずに正確に書類を作り企画を作り上げ

上司である自分に恩返しするのが人として、社会人としての

道理だ。私の仕事がしやすくなるように●分までには出社して

私の都合のいいタイミングで報告し飲み会の誘いも断ってはならないし

他の上司からの打診なんて受けてはならない、それも

人として当たり前だ」

 

 ・・・という無茶な道徳心を要求する。

 

 

つまり、要求したことが一つ出来なくても、

自分を不愉快にさせるしそうさせるなんて

「ここまで道徳を守ってきた相手に」

「道徳を守らないなんて人としてどうなのか?」ということを

常に責め続ける、

 

自己愛性人格障害とは

そういう成り立ちなのだ。

 

 

たまたま自分の悪意や落ち度を隠すために

一般人が「でもあいつのこういうところだって

人としてどうなの~」と責めるとき、

「もうあいつとは付き合いたくない」と

すでに心で距離をとっているものだが、

 

 

自己愛性人格障害者は、

「思い通りにしたい、できる相手」がいると

徹底的にその人に執着してしまい、

離れられない。

 

相手のミスに怒り狂っているように見えても、

相手のミスを責め立てていられるときは

「みじめな自分」から目をそらせる絶好のチャンスなので、

それを生み出してくれる相手から

何をどうやっても離れられないのだ。

 

 

だから「人として~」と何時間も説教する

自己愛性人格障害者に耐えかね配偶者が出ていくと、

その行為も「人としておかしい」「死ぬぞ(これで

助けなければお前は本当に人としてパートナーとして

最低だぞ)」と責め、

 

それでも思い通りにならないときは

ストーカー化しそれでも

「あいつが道理を守らなかった、

自分は守ってきたからあいつを裁く権利がある」

と主張する。

 

常に「モラル」というものを

持っているということを剣に、

それに対し「モラルで返さないのはお前」というのを

盾に、 

自分の悪意を隠していかないといけない

仕組みになっているが、

 

「教員」「医者」「警察官」「社長」「いわゆるエリート」に

自己愛性人格障害者がこだわりやすいのは

「上に立っていてもモラルを主張しても

おかしくない」立場だからというのもある。

 

「親」という立場だったり

「夫として」「妻として」

という言葉も同様だ。

 

「モラル」を唱えるにふさわしい肩書きが

あれば、

その肩書きだけで自分が正しいと思えるからである。