モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

それが「愛」かどうかは、与えられたほうが決めること

モラハラは様々な形に変わって

行なわれる。

 

家庭で行なわれれば

「愛」という名のもとに。

 

職場で行なわれれば

「指導」という名のもとに。

 

 

特に職場では、

最初指導だと思われていたものが

周りからみても

どんどんとエスカレートしていき、

 

気がついたときには

深刻化している。

 

 

そしてそういう場合、

問題として浮上しても、

最終的な言い訳は

「指導」としてやっていた、

 

という形だけの正義だけである。

 

 

「愛しているから」近づきたい。

「指導になると思っているから」

受け入れるべきだ。

 

 

加害者はいつもそう答える。

その愛や指導を受け入れることができない、

相手こそねじくれているのだと。

 

 

モラハラでなくとも、

それが愛のもとに行なわれていたとしても、

 

そこに愛を感じるかどうかは

相手が決めることだ。

 

でなければ、

ストーカーがひたすら愛していることを

訴えることこそが

愛になってしまう。

 

気持ちが強すぎれば、

全て愛であり指導であるということに

なってしまう。

 

 

それが愛かどうかを

与えるほうが決めてしまえば、

 

被害者はそれを受け入れるしか

なくなってしまう。

 

 

「押しつけ」は少なくとも、

愛とは呼べない。

 

愛か、指導かは、

それを与えられたほうこそが

決めるべきことだ。

 

 

それでもなお

「いいやこれは愛情だ」

「これこそが正しい指導だ」と

何度も同じものを押し付けて

くるなら、

 

間違いなくその加害者は

愛や指導を語るべきではない

人間だ。