モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

モラハラに愛はない

「愛しているから」指導するんだ、

「愛があるから」ここまで言うんだ、

 

という言葉をモラハラ加害者は多用する。

 

 

被害者は不思議なことに、

それを信じてしまう。

 

特に被害者として優秀な人間は、

昔その「愛があるから」叩かれるんだとか

指導として酷い言葉でも

受け止めなければならないんだ、

 

という刷り込みを自分にする

必要があった人間が多い。

 

 

特に「愛があるから」と何度も

言い続けてきた人間と血縁関係に

あった場合や、

 

その人間に逆らうと安全な生活自体が

難しくなる場合など、

 

「自分の精神的安定を守るために」

ああ、殴られても蹴られても、

愛はもらえているんだ、

と思い込む必要がある。

 

とにかく人は、

虐待を受けているときに、

それが家族や身内だと、

 

「そんなに酷いことをされているわけでは

ない」

と思い込んで、

実際されていることの実態との均衡を

とろうとする。

 

ところがどれだけ

それを刷り込もうとしても、

感情は正直だ。

 

 

その愛情表現は正しいことなのか、

それは果たして本当に愛情と

呼べるのか、

 

どれだけ被害者としての素質が

あったとしても、

それは意外と皆気付いているものだ。

 

体罰や侮辱を、

「自分が至らないからだ。

向こうが言っているように、

愛があるからこそ

ここまで厳しいこともしてくれるし

執着してくれるのだ」

 

と思っている間は、

 

そう思い込む必要がある、

そうして加害者にしがみつく必要が

被害者にはあるということだ。

 

 

こういう場合に無理やり

第三者に引き離されても、

 

被害者は自分の意思で

加害者のもとに戻っていく場合が多い。

 

 

「これは愛ではない。

ただの侮辱であり暴力だ」と

被害者が認識するくらいまで痛めつけられてから、

 

被害者はやっと

それを愛だと思い込むことの

弊害に気付く。

 

逆にいえば、

モラハラに遭遇して

それを思い知らないと、

 

いつまでも異常な嫉妬心や

執着、

行き過ぎた指導や口出し、

暴力が

 

「それだけ強く関心を持ってくれて

いるのだ」

とプラスに考えてしまう人の

「思考のくせ」は治らない。