モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

「まあ、そういう人もいるよね」がモラハラの入り口

モラハラ被害者は、

幼少期から理不尽な扱いを受けたりすると

自分の傷を守るために、

 

そういう人もいるよね。

そういうことがあるのも仕方ないよね。

相手は相当不機嫌だったのかもしれないな。

態度を改めれば、向こうの感情も変わるかも

しれないな。 

 

 

モラハラ加害者に対しても

そういう気持ちを抱く。

 

 

そうすることで、

「相手はただそういうことをしている

酷い人間」

から、

「相手は事情や理由があってそういうことを

してしまう人間」

 

とつじつまあわせをする。

 

モラハラ被害者の「理不尽な被害」の

多くは、

親や身内からのものであるため、

 

「ただのそういう酷い人間」だというふうに

レッテルを貼ってしまうと、

その被害はいつまでも終わらないことになり、

 

さらにその「酷い人間」の血を引いていることに

なってしまう。

 

だから、努力や工夫をしたりすれば、

きっとこの理不尽な扱いは終わると

信じこむしかない。

 

 

ただ被害者はいつまでも

理不尽な扱いを受け続けるのだ。

 

 

そして、「おそらく理不尽な扱いは

自分がどうやっても終わらない」、

「そういう家庭なのだ」と気付く。

 

 

そのときにはもう、

「必死にご機嫌とりをする自分」

というものが心に刷り込まれている。

 

その努力さえすれば、

きっとこの状況は好転していくという

想いを抱えていないと

生活していけないが、

 

心のどこかでいつまで経っても

それが終わらないことも

薄々分かっているのだ。

 

 

けれども、

「そういう人間もいるよね」

「この世の中いろんな人がいるよね」

という言葉で

自分をごまかす。

 

 

だが、

「そういうこともあるだろう」ではなく

「自分ならそういう気持ちになるか?」

そこが大事である。

 

自分なら、そこまでして

自分の気持ちを押し通すか?

そこまでこじらせるか?

人のせいなのか?

それをわざわざ、相手に言うか?

 

理不尽な扱いを受ける理由を

わざわざ言われたからと言って、

 

そこを改善したら状況が好転したか?

 

 

 

そうやって、あらゆる場面で

譲歩してもらうこと自体を

相手は好むのだ。

 

そしてそれは際限ない。

 

もっともっと譲歩してもらい、

それを永遠に続けることで

自らの価値を保つのが目的なのだから。

 

そうしないと

生きていけないのだから。

 

自己愛性人格障害者の思考は、

「そういう人」の範疇を超えている。