モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

モラハラにあってよかったと思うこと

モラハラなんか百害あって一利ない。
 
モラハラに合っているときって、
「人生経験でした」なんていうには、
あまりにも粗末すぎる時間を
過ごさなければならないから。
 
けれども、モラハラと「戦う」なかで、
『私が』色々と気づけたことがある。
 
 
私はもともと
自分を卑下するような人間で、
 
モラハラにあって、
自分がいざ無価値だと
言葉で、態度で示されると、
やっぱり傷ついて、
 
「やっぱりそうだよね」なんて
思うのと同時に、
 
「こんなの、間違ってる」と
思う自分もいて、
 
こんなに自分の存在を否定してくる人が
いるのに、
 
自分まで自身を痛め付けていても、
どうしようもないことに
気がついた。
 
そのときも、相手に依存する心が
なかったわけではないが、
 
自分自身がどうしていきたいのか、
なにを考えているのか、
自分を大事にするにはどうしたらいいのか、
色々と考えられるようになった。
 
自分の時間を大切にするようになった。
 
くそ真面目に主張をしても、
わかりあおうと努力しても、
何の意味もない人間がいることも知った。
 
善意を平気で踏みにじる、
利用する人間がいることも。
 
そしてそれは憎むべきというよりは、
モラハラ人間も、生きていくために
そうするしか他の手段を知らないのだから、
 
今は哀れみというか、
虚しさしか感じない。
(もちろん、これは別居していて
物理的に離れられているから)
 
あと、モラハラ人間は執着心だけは人一倍強い。
 
だからこそ生活のなかで「寂しい」
と感じることは全くなかったのだけど
(四六時中相手から注意を向けられているから)、
 
それが愛されているからかと言われれば絶対違うし。
 
ただ一時的にでも、間違った形でも、
いったん満たされたような感情に
なったのは事実で、
 
それが本当に幸せなのか?
ということがはっきり分かったのも
事実で、
 
だれと付き合っても寂しさや不安が
押し寄せてくる自分にとっては
 
いい勉強になったかも。
 
まさに幼少期、自分に注意を向けられて
こなかった時間を過ごした人間にとっては
自分にやたらと注意を向けてくる(監視に
似てるけどね…。)モラハラ夫との
生活からなかなか抜け出せなかったりする。
 
それは、被害者であってもその部分は、
心のどこかで心地よさ、安心感を感じているから。
 
ただ、「注意を向けられている部分」とか、
移譲に優しくなる部分」だけで、
それ以外は必要ないんだけどね。
 
もちろん、それ以外にもごちゃごちゃ
要らん特徴がくっついてるのが
モラハラ人間なわけで。
 
(※これは私個人の感じたことであって、
他の人がこう感じるわけでも、
こう感じないといけないわけでも
ありません)