モラハラブログ~モラルハラスメントな人々~

自己愛性人格障害者、モラハラについて語っていきます

父親のモラハラと被害者体質の苦悩

父のモラハラ暦はもう長く、

おそらくもうこの年齢になったら

死ぬまでモラハラを

続けるだろうと思う。

 

 

「父親」であれ「母親」であれ、

モラハラ加害者がいるというだけで

家族として成り立たなくなってくる。

 

 

が、本人は完全に

「立派な父親」でいると思い続け、

「子どもを育て上げた」という

自負だけはある。

 

 

彼にとって

「子育てに成功した子ども」というのは、

年収よりも何よりも、

 

「どのような成績をとり・

どのくらい自分に対して友好的であり、

どのような立派に思われる

職業に就いているか」

である。

 

 

が、現実的に

父の家にはよほど事情がない限り

誰も近づこうとはしない。

 

「子どもたちは苦しんででも、

嫁や子どもを犠牲にしても

親を助けるべき」という

考えをすぐ押し付けてしまう

からだ。

 

 

もちろん最初は

そういうことは言わず

穏やかに接しているが、

 

最終的にはそうなり、

それぞれの子ども夫婦と疎遠になる。

 

 

外面はよく、

周りの人間にはへつらい、

親しくなってくるとどんどん

横柄になってしまい、

 

最後には完全に仲違いして

別れる。

 

 

何度繰り返しても、

「自分のほうが強い」

「自分の話を理解できない

人間が許せない」

という態度になってしまう。

 

 

母が家出をすると、

知人の家でも母の職場でも

臆面もなく探しにいき、

電話をかけまくる。

 

見つかると

「人の嫁をいつまで誘拐している気だ」

と相手を脅す。

 

 

自分の兄弟に訴えられると

イレギュラーすぎる出来事に

人が変わったように縮みこむ。

 

おそらく、母との裁判であれば

「お前なんかに負けるわけがない」と

息巻いていただろう。

 

 

そうやって、

こどもにもモラハラというものを

押し付けて、

それを「教育」として

生きてきた。

 

 

被害者体質というものから

抜け出すのには苦しいし時間がかかる。

 

 

 

小さい頃から

部活を指定し、

仕事を指定し、

付き合う友人を指定し、

家を出る時期を指定し、

それをしないとひたすら説教をし続ける。

 

「行くべき道」というものをすべて決める。

 

なんとなく押さえつけられている

だけのような気がして、

ひたすら反抗してきたが、

「反抗しているときの罪悪感」みたいなものは

ずっと残っていた。

 

「ただその通りにしたくないから」決めたような

事も多くあった。

 

押さえつけられ、

それを跳ね除けているたび、

「お前は出来が悪い」と

言われているようだった。

 

 

支配されているのも嫌だが、

支配から抜け出す自分は

「ものすごく親不孝な、悪人」だと

言われ続けているような気がした。

 

物理的な支配からは抜け出せても、

精神的な支配から抜け出すのは難しい。

 

そのうち、自分がしてきた選択は

自分が本当にやりたかったことなのか、

 

それとも抑圧からただ単に解き放たれたい

からだったのか?

それすら分からなかった。

 

反抗するにはエネルギーが必要だが、

そのエネルギーを生み出していたのは、

「それがやりたいから」ではないことだけは

確かだった。

 

反抗している割に、

自分の考えはない。

 

あるのは支配されようとする不快感と、

支配から抜け出そうとする

強烈な罪悪感。

 

加害者が自分がないように、

被害者に選ばれやすい人間も

自分がない。

 

 

新卒のとき、指導係の人間に、

「指導期間が終わったら実家に帰るの?」

といわれ、

「はい。親との約束ですから」

と答えた。

 

そのとき、その人は笑って

「約束なんて破るためにあるようなもんだよ」

といわれ、

 

マトモに捉えてしまった私は

「親との約束を破るなんて。

あなたと一緒にしないで。

自分はそんな不遜な人間じゃない」

 

なんて心の中で怒っていた。

 

 

だが、その人が言いたかったのは、

「自分がないんだね」

という事だったんだと思う。

 

なんとなくそれを無意識レベルでは

分かっていたから、

恥をつつかれたような感じがして

腹が立ったのだと。

 

 

「親との約束だから」

実家に帰る。

 

結局のところ、

自分で考えて支配から逃れようとしないから

そういう答えになる。

 

「約束を守ることは

当たり前だ」

なんてそれらしいことを

言っていたとしても、

 

結局自己弁護であって、

約束を守らずに親の元を離れれば

自分は完全に親にとって

価値のないものとみなされるような

気がしていた。

 

反抗していても、

最後には支配から逃れられない。

 

 

支配の不愉快さよりも

支配から抜け出そうとしたときの

見捨てられる不安、そちらのほうが怖い。

 

だから

自分が戻ったほうがいいか、

戻らないほうがいいか、

感情としてはどうなのかを

考えるよりも

そちらを先にするのだ。

 

 

「いい子から外れる」

「イエスマンから外れる」という

ことは出来ても、

そのときに自分を犠牲にするような

感覚がある。

 

「いい子でない自分」を許せない。

 

約束を守らずとも

自分に帰りたくない理由があるなら

帰らなければいい。

 

自分のしたいことをやればいい。

 

でもしたいことなんてない。

「親の言う通り生きるか」

「そうでないほうを選択するか」の

二択だけだ。

 

 

そこに多様性なんてなく、

「支配される多大な苦しみ・

反抗しないことで見捨てられない安心を選ぶか」

「支配から逃れる罪悪感と恐怖・

反抗することで見捨てられる不安を選ぶか」

 

それは、モラハラ被害とよく似ている。

「自分から離れるなんて」

「こんなに自分は酷い有様だ」

と言われ続けても、

 

人は自分で生きていかなければならないのに、

加害者が被害者のせいにすれば、

被害者は本当に「自分のせいだ」と

思ってしまう。

 

 

反抗はしても、

最終的に支配から抜け出すことだけが

苦しく恐怖で難しい。

 

「なぜ逃げないの?逃げればいいのに」

と言う問いの答えには、

経済的な理由、

子どもがいるからなどというものだけが

理由でないこともよくある。

 

 

「逃げない苦痛は何度も経験しているが、

逃げたときの苦痛と不安が限りなく大きい気がする」

「支配から抜け出すということが

未知の世界であり

とんでもないことをしでかしている

感覚に陥る」

というようなことも、

 

がっつり被害者体質である人には

当てはまるのではないだろうか。

 

「自分の道」というものを歩いているだけで、

わがままを一度でも通すだけで、

「自分のやりたいことなのだ!

何が悪い!」と自分に言い聞かせていても、

大罪を犯しているような気分になるのだ。